■藤原岳(鈴鹿) |
レポート No.949 |
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新町駐車地(6:40)〜P387(7:00)〜(8:00)丸山(8:10)〜草木P834(9:00)〜(9:40)多志田山P965(9:50)〜(10:30)藤原岳(11:15)〜治田峠(13:00)〜(13:50)日丘稲荷(14:00)〜休みコバ(14:20)〜青川キャンピング(14:55)〜駐車地(15:30) 累積標高1600m 歩行距離15km |
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| ページ1 | ページ2 | プロローグ 岩との格闘が続いていたが、膝の故障で今週は、花見に切り替えた。といって、花見を兼ねたルートチェックを兼ねたロング山行となった。GPSでは累積標高1600m、歩行距離15kmだった。右膝を故障しているので、右には力を入れず、ほとんど左足で重心移動。 アプローチ 新町の上水場に6時半に集合すると、すでに登山者の車が並んでいた。この時期の藤原岳はフクジュソウなど春の花が目当ての登山者が詰めかける。 孫太尾根 この尾根は数年前まではバリエーションルートだったが、近年は、登る人が多くなり、踏み跡がハッキリとしてきた。気温は低いが、天気は良く、気持ちよく歩き始めた。 神武社殿跡を通過し尾根に乗ると傾斜は緩む。サカキやアセビなど常緑樹林となるので見通しは良くないが、石灰岩の露岩になると樹木が少なくなり、明るく見通しがきくようになる。岩場には、石灰岩質を好むキンポウゲ科のヒメウズが小さくかわいらしい花を咲かせていた。ヒメウズ属だがオダマキ属に入れることもあるそうだ。花を下からのぞき込むと、形がオダマキに似ている。 この孫太尾根はアップダウンを繰り返しながら高度を上げていく。最初のピークが「丸山」といわれるところで、山麓からもよく見えている。また山麓から見えるのはこのピークまでで、孫太尾根の全容はわからない。ここ数日気温が下がっていたので、花は少なく感じられた。ヒロハノアマナは花芽は出ているが、開花はもう少し気温が上がらないとだめなようだ。カタクリは葉が出たところだ。トリカブトは根生葉が出たところ。ヒトリシズカの多い尾根だがまだ気配もない。ニリンソウも然り。丸山周辺では、セツブンソウが花の終盤を迎えていた。ミスミソウの花が開き始めている。 多志田山 県境稜線にある標高点965を多志田山と呼んでいる。美しい二次林でプレートがないと知らずに通過してしまいそうだ。樹幹から藤原岳が見える。距離は詰まってきたが、まだこれから標高差200mの登りが待っている。ザックを降ろして一息いれる。シジュウカラが枝から枝へ飛び回り、忙しく鳴いていた。厳しい冬が終わり、楽しそうだ。 さて、あとひと踏ん張りだ。山頂の手前には、福寿草やセツブンソウが咲いているはずだ。それを励みに山頂を目指した。今年は雪解けが早く、斜面が乾いていたので歩きやすかった。期待通り、フクジュソウとセツブンソウが花盛りだった。 山頂には10時30分に到着した。正確には山頂の東端で、山頂は大貝戸や聖宝寺道から登ってきた登山者で賑わっていたので、東端で休憩することにした。この日は、気温が低く遠望が効いていて、地平線に白山、北アルプス、中央アルプスが並んで見えていた。
藤原岳〜治田峠 さて帰路だが、ピストンで帰っても面白みがないし、治田峠からのルートが気になっていたので、少し遠回りだがそちらのルートで下ることにした。前回の記録を見ると5年ぶりということになる。 以前はしっかりとした縦走路だったが、青川のルートが災害により使えなくなってから荒れている。多志田山の巻のルートも不明瞭で一部崩壊箇所があった。この区間は、稜線通しで山頂を踏んだほうがいいようだ。藤原岳からアップダウンを繰り返しながら、治田峠へと下っていく。稜線ではカタクリの葉が出始めていた。また、アセビの花がきれいに咲いていた。所々で展望が開け、恐竜の背のような孫太尾根、横から見ると,丸山や草木のピークがよくわかる。藤原岳、御池岳が一望できる。是非とも、新緑と紅葉の頃に足を運んでみたいと思った。 治田峠〜青川 治田峠までの稜線ルートは概ね良好であった。そこそこ歩かれている歩かれているのだろう。治田峠だが昔は、滋賀の茨川と三重側の新町を結ぶ生活道路であったはず。それに江戸後期に治田鉱山は隆盛を極め、人々の往来も多かったと思われる。良く歩かれていたのか、道が掘割になっていて、そこのカシの落ち葉がつもり歩きにくくなっているのは5年前と変わらず。 「鈴鹿の山と谷2」より引用。 茨川が木地屋家業から、鉱山や旅人相手の宿としての機能を高めるにつれて、近江より伊勢への依存度が大きくなり、勢い生活物資の調達を比較的近い治田新町に求める事になる。そして炭焼き全盛の時代になると炭の搬出に人夫が大勢で入りするようになった。伊勢治田はもとより、石ぐれや阿下喜あたりから、駄賃を求め一日二度も往復したものもあったという。青川の渓谷の道はけっして容易なものではなかったが、寒村の村は困難をものともせず働いた。・・・・茨川の銀山が衰退した後江戸期には治田側に銅を中心とする大鉱脈が発見されることになり、八田村はにわかに活状を呈することになる。江戸幕府は治田を天領とし、新町ができて代官所を置き鉱山の経営に乗り出すことになる。ひなびた山村は一転して歓楽街が出来、女郎屋まで出現したという。・・・ 坂の途中に中尾地蔵があるが、社はすでに朽ちていた。また、ルートが、河原の手前で不明瞭になっている。谷まで至ると今度は谷歩きになる。左岸に道があったが流されている。しかしそのまま谷を下ると大滝に阻まれるので適当なところで左岸に移ると道がのこっている。平地になり集落の石積みがわずに確認できる。そして日岡稲荷がある。鳥居は朽ち果てているが、なぜか賽銭箱はしっかりとしている。この先には、鉱山時代に素掘りのトンネルがあったが、どこだったか判らない。災害の前に何度かトンネルと通ったことがあった。もう十数年前だ。
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2016-3-26 Copyright (C) 2016 k.kanamaru. All Rights Reserved. |