朝明の歴史

 朝明の登山の歴史は室町時代以前から千草越(現在の根の平峠)として塩の移入路のため開かれた。
  安土桃山時代には織田信長が姉川の合戦に時、三岳寺・千種城などを焼き払い、この道を通り岐阜へ戻ったといわれている。
  また江戸時代には伊勢(三重)近江(滋賀)を結ぶ重要な交通路で、海産物・塩・布・鉄工品が商人たちの手によって運ばれた。根の平付近には商人・武士などを泊める宿や茶屋もあったといわれている。
  明治時代に入ってオランダ人技師により、猫谷の崩壊をとめる砂防工事が行われ珍しい工法の堰堤や土止工が見られる。その後 大正時代に入って、タケ谷出会いから杉峠にかけて鉱石(銅・)の採掘が行われ、現在その付近には群落や分校跡がみられる。 昭和にはいると炭焼きが、朝明渓谷・愛知川渓谷一帯で盛んに行われ、現在もそのなごりとして炭焼き跡が登山道の随所に見られる。昭和43年に鈴鹿国定公園に指定された。